中国社会科学院での講演原稿(2004年5月25日北京での筆者中国語講演の日本語原稿)

講演テーマ:日本経済及び日中経済関係---国際通貨における円の今後の地位を含めて

□表題に戻る

過去の日本経済成長を支える上で大きな役割を果たしたのは、為替の固定相場制、護送船団行政等の金融システムであった。

護送船団行政とは、政府が金融機関等の特定の産業を保護して、他の産業や外国企業からの参入を抑制する産業政策を意味する。

日本では、国立銀行若しくは国の主導で設立された長期信用銀行3行(日本興業銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行)、北海道拓殖銀行等が、完全民営化され、1960年代の鉄鋼、電力、造船、石油化学等の基幹産業の成長と地方経済の育成の任を負った。

護送船団行政の下では、政府・中央銀行が資金の産業間配分に影響力を行使した。具体的には、企業の資本市場からの社債による資金調達が制限され、銀行預金や長期信用銀行の発行する金融債に資金が誘導された。長期信用銀行は3行一律の金利による利付金融債を発行し、0.9%という非常に低い利鞘を上乗せした長期プライムレートによる貸出を積みました。

護送船団行政により、金融機関を核にした企業と金融機関の株式持合が実現した。この結果、外部の独立株主の影響力を排除し、株式の配当性向を抑えることができた。企業にとっての設備投資を進める環境整備が行われた。そして、1960年代のGDP実質成長率の平均は10%に達し、先進国へのキャッチアップが実現した。

1970年代に入ると、1971年8月15日のニクソンショックにより金とドルの交換が停止された。日本は同年8月28日から変動相場に移行した。しかし、日本の中央銀行は、1ドル360円の相場維持を目指し、多量の円売ドル買いを継続したため、巨額のマネーが市場に蓄積され、インフレの下地が生まれた。1ドル360円の相場維持は3カ月強続いたが、同年12月18日のスミソニアン合意により、円は16.88%の切上げとなり、1ドル308円に確定した。

1973年10月のオイルショックにより、石油価格の転嫁で起こるインフレが加わり、1974年には消費者物価上昇率は26%に達し、GDP実質成長率はマイナス1.2%となった。1950年代以降、初めてのマイナス成長となった。1973年10月に閉鎖された東京外国為替市場は1973年12月に再開され、1ドル308円から277円からスタートする変動相場制に移行した。

1970年代はオイルショックの影響と為替の切上げにより、GDP実質成長率の平均は5%台となった。

1980年代に入り、米国で財政収支と経常収支の両面での「双子の赤字」が続いた。1985年9月に、日本の内需拡大・ドル高是正を目指したプラザ合意が実現した。プラザ合意により、円の水準は一挙に上昇した。1985年の年間平均為替レートは1ドル235円であったのに対し、1986年は1ドル167円となった。                             

プラザ合意による円高の影響により、1986年の国内景気が悪化したことから、大幅な金融緩和政策が継続実施された。大量のマネーが市場に蓄積された結果、株式投資と不動産投資が活発化した。内需拡大という公約に縛られた結果、株式と不動産価格の上昇が放置され、バブル経済が発生した。この時期、既に、日本の高度経済成長を支えるという使命を失った長期信用銀行や北海道拓殖銀行は、新しい活路を見いだすために、既に高騰している株式や不動産を担保にとった融資を推進した。護送船団行政に守られた金融業界は、当時米国では一般的であったDCF法等の審査ノウハウを保有せず、他行と横並びなら問題が発生しても政府に助けてもらえるという甘い考えで行動を取った。

1990年1月、円・株・債券のトリプル安が起こり、バブル経済の崩壊が始まった。担保価値の下落と乱脈融資が多額の不良債権を生み出し、失われた10年といわれる長期間の景気低迷の時代に入った。

1995年に入り、日本政府は公的資金の投入による不良債権の処理に着手し、住宅専門会社の処理を行った。その後、既に使命を失った長期信用銀行の内、1998年10月に日本長期信用銀行、同年12月に日本債権信用銀行は実質破綻といえる一時国有化となり、北海道拓殖銀行は1998年11月に全店閉店となる破綻処理が行われた。

2000年代に入ってからは、2003年5月にりそな銀行に2兆円の公的資金注入の実施、2003年11月に足利銀行の一時国有化による処置が講じられている。

日本政府は、バブル経済の崩壊以降、大規模な公的資金の投入、公共投資の拡大を続けてきた結果、公的債務残高が急増した。GDPに占める国と地方を合わせた債務残高は、1990年で64.6%であったものが、2003年末には151%に達すると推計されている(出所:経済同友会調査)。2003年末の推計で、英国50.9%、米国62.0%、ドイツ63.7%、フランス68.4%という状況と比較すると、日本国の財務バランスの極端な悪化は、将来の経済成長に向けての大きな足かせとなる。

2001年以降、米国向け輸出は減少を続けているのに対し、中国向け輸出は一貫して増加の傾向にある。2001以降の3年間で、米国向け輸出は274億ドルの減少であったのに対し、中国向けは304億ドルから572億ドルに増加。268億ドルの純増となった。2003年は対米輸出の減少を補って日本総輸出増加に貢献した。現在、日本では、中国向け輸出増加について、中国特需と呼ばれている。
1980年代はバブル時代の高成長があったもの、GDP実質成長率の平均は3%台となった。1990年代はバブル崩壊の影響が直撃し平均1%台の成長に止まった。2000年代に入り平均2%に上昇している。

2003年に入ってからの日本経済は、アジア向け輸出の増加、特に、中国向け輸出の増加により、景気の回復に向かっている。対中輸出増が著しい品目として、鉄鋼、化学品、建設機械、自動車、電子部品、事務機器、デジカメ、携帯電話等があげられる。

2004年に入ってからも、2004年3月日本からの輸出総額が5兆4449億円(出所:経済産業省/速報ベース)と、前年同月の4兆8061億円を大幅に上回る状況にある。

全国平均の地価は引続き前年比マイナスの状況にあるが、株価はようやく20年前の水準を上回る状況に回復してきた。

日本が、今後、これまでの長期不況から脱却し、安定した経済成長を実現するには、日本円の安定が必須である。2003年の日本のアジア向け輸出は2,183億ドルに達し、米国向け輸出額1,154億ドルを大幅に上回っている。日本にとっては、ドルに対する為替の日本円の安定に加え、中国人民元、アジア通貨に対する安定が将来に向けた重要な課題となっている。


中国の2004年1〜3月期GDP実質成長率は9.7%と2003年の9.1%を上回った。景気の加熱が見られ、上海地区等での不動産の値上がりは、日本のバブル時期に近い状況にある。

中国の現在の金融システムは、過去の日本経済成長を支える上で大きな役割を果たした、為替の固定相場制、護送船団行政等のシステムと同様の特徴を持つ。

中国は、2001年12月11日、WTO(World Trade Organization)に加盟した。WTOへの加盟により、金融分野での自由化を順次進める段階にある。これまで、日本が為替の固定相場制から完全変動相場制に以降するまでの経験は中国の今後の金融政策を進める上でも参考になろう。日本が最終的に失われた10年とうい長期不況に陥ったことから、急激な為替変動は自国に不利益を持たらす事例といえる。

(1)1971年のスミソニアン合意(360円→308円)
(2)1973年のオイルショック(308円→277円)
(3)1985年プラザ合意(1985年の年間平均為替レート235円→1986年平均為替レート167円)
(4)1990年バブル経済に対する金融引締め政策実施(1990年の年間平均為替レート
145円→1995年の年間平均為替レート1995年94円)
*年間平均為替レート=月間平均為替レートの合計÷12

為替の急激な変動を抑え、自国の安定成長を目指した制度としては、1979年3月13日に発足したEMS、欧州通貨制度(European Monetary System)がある。現在12カ国が参加しているEUの単一通貨ユーロ(Euro)が実現されるまでの過程で誕生したシステムである。単一通貨ユーロの誕生により、為替市場は、ドル一極構造からドルとユーロの二極構造に変貌をとげ、日本円の地位は一層後退することとなった。

EMS運営の中核となっていたのはECU、欧州通貨単位(European Currency Unit)であった。EMS参加国通貨はECUに対して、1ECU=2.48208マルク、1ECU=5.847フランス・フランなどのセントラル・レートが設定され、これをもとにして参加国通貨相互間の中心相場が決定された。

ECUが、通貨単位として将来のEuroに結びついたのは、ECU建て債券市場が生まれ、発展したことがあげられる。ECU建て債券市場については、日本の国営銀行である国際協力銀行も、1990年、1991年、1998年にECU建ユーロ普通社債を発行し、EURO誕生後には、2003年にEUR建普通社債の発行を実施している。

アジア地域での通貨安定については、1997年のタイバーツの危機が引き金となったアジア通貨危機に際して、日本のイニシャチブで地域的な通貨協力を制度化するためのアジア通貨基金構想(Asia Monetary Fund)が議論された。しかし、米国の反対等で、実現に至らなかった。2000年5月、ASEAN10カ国に、中国、韓国、日本を加えた第一回経済閣僚会議で、ASEAN資金融通協定が合意された。ASEAN5カ国が参加した総額2億ドルの既存スワップ協定に、中国、韓国、日本が参加することとなった。

これまでのアジアの通貨安定制度は、ASEAN加盟国通貨を対象としており、中国人民元、日本円を対象としていない。WTO加盟以降の中国人民元の自由化の進捗や、日本の経済成長を考慮した場合、中国と日本のより強固な通貨協定と安定した通貨による債券発行市場の創設が望まれる。

具体的には、中国、日本が中心となり、AMS=アジア通貨制度(Asia Monetary System)と、EACU=東アジア通貨単位(East Asia Currency Unit)等の新通貨単位創設の検討があげられる。新通貨単位の機能は、@為替相場メカニズムの表示、A乖離指標の基準、B介入および信用制度の運営のための表示単位、C中央銀行間の決済手段である。参加国通貨は新通貨単位に対してセントラル・レートを設定する。各国通貨の変動幅は上下数%で設定。自国の為替レートが早期警戒指標に到達した場合には、@各種通貨による介入、A国内金融政策の変更、B基準相場の変更、Cプライマリーバランスの均衡維持水準の指定、D自国の歳出や公的債務の削減等の具体的な経済政策を実施することを定めるような手法が考えられる。併せて、参加国の保有する外貨(ドル)準備の一定割合を参加国共通の基金に預託し、市場介入資金ファイナンスを目的としたEACU建表示による短期信用供与制度を設けること等が検討の課題となろう 。

現在の日本は、GDPに占める公的債務の残高が、欧米の2倍以上、150%に達している。国家の財政破綻を避けるためにも、通貨協定によるプライマリーバランス均衡維持条項や公的債務増加制限条項が盛り込まれた通貨安定協定への参加が求められる。中国においても設備過剰、不良債権増額の懸念が生まれており、自国の財政を健全な水準で維持する指標として、通貨安定協定に参加する意義は認められると思う。

日本においては既に経済のグローバル化が進展しており、ボーダレスな金融取引が活発に行われている。中国についても、グローバル化の進展は時間の問題であり、両国のより強固な通貨安定協定締結が必要である。東京市場や将来の上海国際金融センターでのアジア各国の通貨や新通貨単位建による債券発行市場の創設が望まれる。各国政府や日本の国際協力銀行、中国銀行等が、将来、新通貨単位並びに人民元、日本円等の各国通貨による国債・普通社債をグローバルなアジア市場で頻繁に発行できるような状況になれば、両国の安定した経済成長の道筋が開けるであろう。

以上

□表題に戻る