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「風水三元九運理論による歴史の分析と風水による将来の予測」

2003年までは、風水下元七運時代です。

下元七運時代は、180年毎のサイクルで到来します。

七運時代は、破壊と再建設を象徴しています。国家や超大企業が崩壊し、新しい国や企業の生まれる時代です。

下元の厳しい風水を受け、経済・社会が下降線を歩みます。2003年迄は、日本銀行が、徳川時代、下元七運にあたった文政金改鋳の時代と同様、通貨を多量に発行しますが、一般国民の幸福に結びつけることは出来ず、非常に厳しい年が続くでしょう。

風水三元九運は、時代に対し警告を発します。

1.風水理論による歴史の分析 

(1).未来情報分析学「風水三元九運」

中国風水の基本理論には、三元九運という考えかたがあります。三元九運は、太陽系の宇宙を一つの規則のに基づく「世界」として捉えます。太陽系の九惑星が、一列に並ぶまでの期間180年をひとつの大分類とします。60年毎に中分類し、土星と木星が出会うまでの期間20年を小分類とします。

60年毎の中分類は、各々「上元時代」「中元時代」「下元時代」に分けられます。20年毎の小分類は、上元時代の最初の20年を「一運期間」とし、最後の下元時代の20年を「九運期間」とします。

上元時代は、国家や新しい産業の発展が始まる上昇の時代で、中元時代は、成長と安定が生まれる時代です。下元時代は、国家や産業が、成熟から下降と崩壊に向かう時代とされます。しかし、下降と崩壊の中で、新しい国家や産業の芽が生まれる時代としての特徴を持ちます。

現在は、1984年からはじまった下元時代「7運期間」とされ、2003年まで、この期間が続きます。

(2).歴史が証明する「風水三元九運」による国家の興亡

歴史の事実は、風水三元九運の正確性を裏付けています。文字文明を発達させた「殷」王朝の滅亡は、下元時代です。そして、「周王朝」が衰えた春秋時代、「漢王朝」「唐王朝」「宋王朝」「明王朝」の滅亡は、全て下元時代のできごとです。更に、「清王朝」衰退の原因となった「太平天国の乱」「アヘン戦争」も下元時代に起こりました。

このような歴史上の事実は、中国の王朝の大半が、下元時代に滅亡するか、滅亡の原因を生んだことを示しています。日本についても、豪族の対立と聖徳太子の摂政時代は、下元に該当します。更に、応仁の乱による戦国時代、開国・安政の大獄に始まる江戸幕府の崩壊は、下元時代のできごとです。産業面でも、下元時代に産業革命の芽が生まれ、上元時代に大きな成長を遂げており、国家の興隆に併せたライフサイクルを描いています。 

風水三元九運が定義する時代のはじまりは、甲子(キノエ・ネ)の年からスタートします。現文明下での三元九運の最初の甲子年は、紀元前2277年です。黄河文明から発達した「夏王朝」の建国年と一致すると考えられます。現在の歴史書では、「夏王朝」の存在を証明されていません。しかし、三元九運の国家興隆のサイクルを逆上ると、私達横浜中華街風水倶楽部メンバーの意識を中国4千年の歴史誕生の場に、タイムトラベルをすることができます。

風水三元九運では、20年を最小の期間とし、3倍の数字を一つの時代として考えます。前述の通り、180年が一時代ですが、更に、540年(180年×3)・1620年(540年×3)・4860年(1620年×3)が、大きな時代のサイクルとして理解することも可能です。

4860年のサイクルにより、時代を逆上った場合、紀元前2277年・紀元前7137年・紀元前1万1997年が、人類文明の転換点となる歴史の局面となります。

(3).紀元前1万1997年(甲子年)有巣氏(ユウソウシ)登場

4860年のサイクルを逆上り、洪積世の氷河期が終了した時期と一致するのが、紀元前1万1997年です。この年には、中国伝説の指導者有巣氏が登場した時期と考えられます。実際に、新石器を発明した人が有巣氏と名乗ったかは、不詳ですが、効率的な狩猟生活による人類の躍進が、はじまったのは確かです。

有巣氏は、暗い太陽による凍りついた氷河の時代から、明るい太陽の時代に相応した新石器の文化をもたらしました。その姿は、丁度、日本書記に書かれた「アマテラスが天の岩屋戸から引き出され、暗黒の世界に光をもたらした姿」と、重なりあいます。歴史は、神話の形で、氷河時代の記憶を人類に残し、風水三元九運は、過去の氷河時代終了年を推計します。

紀元前1万1997年に、太陽系の活動が安定期に入りました。穏やかな明るい太陽の恵みを受けた、風水三元九運による「人類第一次文明」の誕生年で、私たちの日常生活に、深く入り込んでいる十二支もスタートしました。

(4).紀元前7137年(甲子年)燧人氏(スイジンシ)登場

「人類第一次文明」は、人類に鋭敏な新石器による狩猟時代をもたらしました。しかし、その文明は、狩猟場を移動しながら生活をする民族集団を生むにとどまりました。この狩猟時代は、4860年もの期間続きました。第一次文明の最終段階では、風水三元九運の第一サイクル最後の大きな下元の風が吹きました。下元の風は、「人類第二次文明」に繋がる「火」と「穀物の生産方法=農耕」の発見をもたらしました。

「火」と「農耕」による文明をもたらし、狩猟生活からの脱皮を実現させた指導者は、有巣氏に続く、偉大な伝説上の指導者、燧人氏(スイジンシ)と考えられます。紀元前6597年に風水三元九運の第二サイクルが開始し、新しい上元の風を受けました。そして、燧人氏(スイジンシ)による中国黄河流域での仰韶(ギョウショウ)文明が開始しました。「人類第二文明」は、優れた彩文土器や黒陶を生み出し、階級の存在しない、平等な原始共産社会を実現しました。

中国の伝説では、燧人氏の後、太昊伏羲氏(タイコウフクギシ)が指導者の地位を継いだとされます。太昊伏羲氏(タイコウフクギシ)は、風水方位の原型となった、八卦(ハッカ)を創造したとされる風姓木徳(カゼセイ・モクトク)の王です。

太昊伏羲氏(タイコウフクギシ)に続き、漢方薬の原型を編み出したとされる姜性火徳(キョウセイ・カトク)の王、炎帝神農氏(エンテイジンノウシ)も登場しました。そして、三皇(燧人氏・太昊伏羲氏・炎帝神農氏帝)時代を形勢したとされます。

「人類第二文明」の時代は、人類に始めて定住を実現させ、黄河流域での人類人口の増加がはじまりました。しかし、「人類第二文明」の時代は、洪水に対しては、成す術がなく、洪水の度に住居と農地を失うという事態を繰り返していました。

(5).紀元前2277年(甲子年)人類最初の風水師、夏后氏禹(カコウシウ)登場

夏后氏禹は、黄河流域で最初に治水事業を指導し、洪水から民族を救った英雄として伝えられています。夏后氏禹が、十三年間の治水事業に成功し、その功をもって、伝説の五帝の一人「舜有虞氏(シュンユウグシ)」より、天子の位を引き継ぎ、夏王朝を誕生させました。文字の発見による人類第三次文明の開始は、中国4千年の歴史が開始した場面でもあります。希望に満ち溢れ、濁りなく清々しい風水三元九運上元時代の姿が浮かびあがります。

中国では、一般的に、最初の風水師は、青烏公(セイウコウ)といわれます。青烏公は、殷の時代の長寿の人として有名な彭祖(ホウソ)の弟子です。12回の玄学の試験を受けたが、3回は落ちたといわれています。華陰山で修行を積み、風水をマスターし、民間に伝えました。このため、風水は、青烏之術とも呼ばれます。

しかし、中国の伝説をひもといていくと、夏王朝の初代天子禹は、人類最初の風水師であると考えられます。中国の歴史書(史記・夏本記)によると、「禹」が、揚子江を渡っているとき、突然、黄色の龍(竜巻)が現れて、「禹」が乗っている船を空中に持ち上げました。「禹」は、この黄色の龍をまるでヤモリを見ているように、顔色も変えずに迎えたことから、龍の怒りがおさまり、穏やかになったと伝えられています。この他にも、「禹」は、風水の龍門を開いたとする伝説もあるります。「禹」は、自らの風水を見る卓越した能力により、自然の偉大な力を味方に付ける風水師として、人類第三次文明の扉を開いたといえます。

(6).紀元前1016年(甲子年)風水奇門遁甲(トンコウ)方伝承者、「太公望」登場

殷王朝を滅ぼした周の軍師「太公望=姜(キョウ)子牙」は、歴史上の実在者として、証明されている人物です。「禹」と同様、風水師と伝えられています。日本では、「太公望」とは、釣り人のことを意味します。「太公望」を釣り人とする由来は、周の王「西伯(後に文王)」が、猟に出ようとして風水神龜吉凶占いを行ったところ、獲物は龍・虎・熊ではなく、覇王になるための参謀であるとの卦が、出ました。そして、猟に出たところ、渭水(イスイ)の北岸で、釣り糸をたれている太公望と出会い、スカウトしたことによります。

太公望は、殷の防衛線である十絶陣・黄河陣を「風水奇門遁甲(トンコウ)方」により、打ち破りました。最後は、太公望を指揮官とする100人の精鋭部隊に対し、殷の「紂(チュウ)王」が70万人の軍隊を差し向けました。しかし、70万人の軍隊も、太公望側に寝返り、殷の「紂王」を自害させることとなりました(史記・周本記)。風水奇門遁甲方が、陣営の配置や自然現象の予想だけでなく、相手の行動までもコントロールできるとされるのは、このような70万人もの軍隊の寝返りを実現させたことによります。

太公望が伝承者となった「風水奇門遁甲方」は、三皇時代を次いだ、五帝の最初の天子である「黄公孫氏(コウコウソンシ)」が生み出したとされています。「黄公孫氏」は、太昊伏羲氏(タイコウフクギシ)が創造した風水の原型を発展させた人物です。同氏は、方位磁石を備えた「指南車」をあみだしました。天子となった後は、「風水奇門遁甲方」により、蚩尤(シユウ)という異民族の王による反乱を鎮圧に成功しました。蚩尤(シユウ)の存在は、「史記」や「書経」に記載され、民間には、山東省「蚩尤の墓」や河北省「蚩尤戯」という踊りもあったといわれています。

(7).紀元220年(庚子=下元8運)後漢滅亡、諸葛孔明による風水奇門遁甲方の完成

「黄公孫氏」から、「禹」を経て、太公望に渡った「風水奇門遁甲方」は、三国時代の屬漢(ショクカン)の軍師「諸葛孔明」の手で、戦術書としてまとめられました。

後漢末期、劉備(リュウビ)と孫権の連合軍が曹操の軍に対峙しました。魏・呉・蜀の天下三分の形勢へと分かれた、紀元208年(戊子=下元8運)赤壁の戦いは、「風水奇門遁甲方」が、駆使された場面です。諸葛孔明は、曹操軍の動きをコントロールし、自然界の流れを味方につけ、僅か20雙の戦略船で、何千雙もの曹操側の軍船を打ち破りました。

明時代に羅貫中(ラカンチュウ)氏により書かれた「三国演義、七星壇諸葛祭風」によると、諸葛孔明が、「風水奇門遁甲方」を使う場面の記載があります。これを要約しますと、次のようになります。

「三国演義、七星壇諸葛祭風=諸葛孔明は、風水の祀場を作り、下一層の場所に28面の旗を建てた。東方には七面の青い旗を建て青龍を祀った。北方に七面の黒い旗を建て玄武を祀った。西方には七面の白い旗を建て白虎を祀った。南方には赤い旗を建て朱雀を祀った。下二層の場所に先天八卦と後天八卦を意味する64面の黄旗を建てた。-------」

この文章で出ている、「青龍」「玄武」「白虎」「朱雀」は、風水方位学の基本です。日本の平安京や、現在の横浜中華街等の多くの町で、青龍門、玄武門、白虎門、朱雀門が存在しています。

「青龍」は、東方の守護神で、竜を形どります。蒼龍とも呼びます。「玄武」は、北方の守護神で、カメの甲に蛇が巻きついた形をしています。「白虎」は、西方の守護神で虎を描きます。「朱雀」は、南方の守護神で鳳凰を描きます。中国の風水では、山に囲まれ水に抱かれた地形を理想としており、四神相応(北に玄武、東に青龍、南に朱雀、西に白虎が位置する)ともいいます。科学的にも、四神相応の地形は、自然界のパラボナアンテナとして、マイクロ波をはじめとした、宇宙のエネルギーを集める機能が強いことが、証明されています。

このように、諸葛孔明により完成された風水奇門遁甲方は、自然界に流れる「運気」を自らの方向に導き、敵方の運勢を奪います。更に、周囲のあらゆる環境を味方に付ける強運学として、位置づけられました。

2.風水による将来の予測

下元7運時代、好調のシンボルは87!

現在は、風水120年サイクルでの下元7運時代です。下元7運時代は、2003年まで続きます。加えて、風水540年サイクルでも下元時代に分類されることから、下元の風水の効果が倍増する時代に、生きているといえます。

風水下元七運は、兌(ダ)の卦(ケ)を持ち、「上中虚」の符号を持つといわれます。

兌の卦が持つシンボルは、次のとおりです。

方向=西

物質=金属

人物=三女

仕事=レジャー業・タレント業・風俗業・宗教家

行動=無邪気・説話・悦楽・破壊・再建設

身体=口の部分

動物=羊

自然=沢

徳=悦び

  

兌の持つシンボルから、1984年〜2003年までの風水下元七運時代は、あらゆる出来事が旺盛になる反面、反動としての崩壊が進むタイミングと、理解できます。

1984年以降の世界の情勢を見ましても、「人物=三女」を象徴する女性の政権担当者が、現れました。女性の社会進出もみられるようになりました。「行動=宗教家」を象徴する宗教が人気を呼び、道を外れたカルト教団による破壊活動までもみられます。「行動=レジャ業」を象徴する娯楽事業の発展は目ざましく、米国では、カジノ事業が大成功をおさめています。今や世界最大のホテルは、ラスベガスに集中しています。不動産事業で倒産状態に陥ったトランプ氏が、カジノ事業の成功で復活するような事例もあらわれています。日本の競馬やパチンコの人気も強く、上場会社を幾つも持つ大企業グループがパチンコ事業に本格参入を始めています。「行動=破壊・再建設」を象徴するソ連邦の崩壊がおこりました。日本では、大きな震災も起こりました。 

過去の歴史をみましても、紀元907年(下元7運)、唐王朝が滅亡しました。その後、下元8運、下元9運時代を通し、53年間の五代十国時代の混乱が続きました。上元1運の新しい180年サイクルの時代に、宋が、ようやく中国を統一しました。

日本では、1638年(下元7運)に、島原の乱が発生し、4万人もの殉教者がでました。

西洋では、1804年(下元7運)に、ナポレオンが皇帝に即位し、ナポレオンブームが到来しました。しかし、1814年(下元7運)には、ナポレオンは退位し、エルバ島に流されました。バブル崩壊のごとくナポレオンのブームは去りました。

2003年までの下元7運時代は、破壊と再建設が大きなシンボルとして続きます。残された7運時代の期間は、地域紛争・震災について、要注意の期間です。 

風水学の上では、数字の「7」は、下元7運のシンボル効果を強めるといわれています。震災については、7時・7日・7月が要注意です。

反面、企業経営者やビジネスマンにとっては、「7」の数字は、繁栄と旺気をもたらします。身分証明書・クレジットカードの末尾の番号が「7」だと幸運の「お守り」になります。車のナンバープレート・電話番号・住所等の最後の番号が「7」でも、繁栄と旺気の効果があらわれます。自らの「運気」を引き上げられる番号とお考え下さい。但し、2004年になると「7」の効果は失われます。

「7」以外に、幸運の数字としては、「8」があります。「8」は、2004年からの下元8運のナンバーです。現在の下元7運時代からすると、「8」は、将来の旺気を示します。「8の朝気」が勃々(ボツボツ)と生長力と希望をもたらします。「8」は、艮(ゴン)の卦(ケ)に属し、「土」をシンボルとします。

下元8運のシンボル「土」と下元7運のシンボル「金」は、五行相生の関係にあるといわれ、大きなプラスの相乗効果をもたらします。身分証明書・クレジットカードの番号が「87」で終われば、周囲の「運気」までもを呼び寄せられる最大吉の番号となります。最大吉の効果は、2003年まで続きます。

2003年までの下元7運時代は、悦楽・破壊・再建設の時代です。日本では、既に下元7運時代の前半(1984年〜1993年)に、バブル経済の発生とその崩壊現象が生まれました。下元7運時代の前半末、1993年度に、バブル崩壊はピークに達しました。

下元7運時代の後半に入った1994年度も、バブル経済崩壊現象が続き、実質成長率は、0.5%に落ち込みました。名目成長率は、0.4%で、成長率の名実逆転現象がうまれました。名実逆転現象は、強烈なデフレ経済を示しています。デフレ経済は、一次的には、消費者にメリットをもたらしますが、長期間続くと、失業者急増により、消費生活を崩壊させます。

1995年度も成長率の名実逆転現象が続きました。歴年ベースでは、成長率ゼロ%台の「小数点成長」が3年間続いたこととなります。

下元7運の20年サイクルを分析しますと、成長率の名実逆転現象は、1997年度後半には解消しました。下元7運後半の1998年度には、再建設に向けた動きが進むこととなります。しかし、下元の風水は、下降の大きな流れの中にあることから、順調な回復は望めません。1998年の信用秩序動回復の動きは、1998年度後半に入り、一端挫折する懸念が持たれます。21世紀に入った後、本格的な回復を示すことになると予測されます。